わたしは掃除が嫌いです。(キッパリ)
昨日は、久しぶりに晴れました。
晴れたのが嬉しくて少し散歩に出たら、太陽のパワーでやる気が出てきたので、面倒臭くて最近していなかった窓の掃除とカーテンの洗濯をすることが出来ました。ついでによく履いている靴も洗いました。
太陽のパワーはすごいです。
昨日は太陽パワーの後押しのおかげで出来ましたが、わたしはもともと掃除が嫌いです。
嫌いではあるものの、大切な自分自身を汚い空間に住まわせることが好きではないので、仕方なくやっています。
でも、やらなくていいのだったら、全然、全く、これっぽっちもやりたくありません。笑
窓の掃除(特に苦手な掃除のうちの一つ)をしながら、「わたしは一生こんなに嫌な掃除をし続けなければいけないのか…」と、ブルーな気持ちになりました。
「一生掃除をしなくてもいい生活がしたいなぁ…」
「お金持ちの人は家政婦さんとか雇うんだろうなぁ…」
「ん?でも家政婦さんとまではいかなくても、家事代行サービスって普通にあるよね?」
「お金持ちの人限定って訳ではないのか…」
「あれ?じゃあ、わたしがそのサービスを余裕で受けられるくらいの収入になれば、自分で掃除をする必要なくない!?」
その時、初めて「自分で掃除をする必要のない未来」というビジョンが思い浮かびました。
今までは、無意識のうちに「掃除は自分でするものだ」と思い込んでいたということに気が付いたのです。
わたしは掃除が嫌いで、それは変えようの無い事実です。「嫌い」を「好き」に変えることには限界があります。
そもそも、好き嫌い自体には良いも悪いも存在しません。人が勝手に良いか悪いかという判断をするだけです。
でも、
「掃除が嫌いだなんて、他人から怠け者だと思われるよなぁ…」
「きちんと出来る人もたくさんいるんだから、自分もできるようにならなくちゃ」
という、他人軸の思考(誰かがこう思うから自分もこうでなくちゃ、という思考)による変な思い込みがあったため、わたしの中で「掃除が嫌いな自分=ダメな自分」という方程式が知らないうちに出来上がっていたのです。
他人軸の思考を手放したことで、初めて「掃除が嫌いな自分」をきちんと認めて、受け入れてあげることができました。
わたしは、掃除が嫌いでも別に良いし、嫌いだったら無理してやり続ける必要はないのです。
自分が嫌いで出来ない・やりたくないことを、対価を払うことで他の誰かに依頼できるのだったら、依頼すればいいだけのこと。
自分の好き嫌いを他人軸の思考で良いか悪いか判断してしまうと、自分自身を縛り付けることにしかなりません。
それが別に苦痛ではないのだったらそのままでもいいのですが、苦痛だと感じるのだったら、「自分を他人軸の思考で縛り付けている」ということにきちんと気付いて、縛り付けている部分を解放してあげる必要があります。
わたしは「掃除が嫌いな自分」を受け入れて解放してあげることが出来たことによって、随分心が軽くなりました。
今の掃除の苦痛も、自分がそれ相応の収入を得られるようになるまでの辛抱なのだと思うと、「じゃあ、それまではそこそこでいいから頑張るか」と、ラクな気持ちで考えられるようになりました。
こんなわたしのことを、「お前はなんて怠け者なんだ!そんなことではダメだ!」とお叱りになる方もいらっしゃるかと思います。
でも、誰にどんなことを言われても、わたしは掃除が嫌いな自分自身に「ダメだ」なんて言うことはもうありません。
わたしが「それでオッケー!」と判断したから、誰にどうジャッジされようと構わないのです。
…と、こんなことを言っていますが、わたしの中にはまだまだ他人軸の思考で「ダメだ、ダメだ」と縛り付けている部分が存在しています。
もっともっと振り切って、自分の思考の主導権は自分がきちんと握って、
わたしから「ダメだ、ダメだ」と否定されている自分自身を解放していってあげようと思います。